歴史

ロバート・ベーデン-パウエル卿

ボーイスカウト運動を始めたのは、イギリス人のロバート・ベーデン-パウエル卿(以下B-P卿)です。

ロバート・ベーデン-パウエル卿

ロバート・ベーデン-パウエル卿

B-P卿は1857年2月22日イギリスで、7人兄弟の5番目の子として生まれました。
生まれて3年後にオックスフォード大学の教授であった父が亡くなりましたが、教育熱心な母親の影響を受け育ちました。
その母親の影響が後年「スカウト運動」を創り出す礎となったと言われています。
B-P卿の父親は牧師で、母親はW.H.スミス提督の娘であったことから、信仰心も厚く、他方では新世界への移民の冒険心に富んだ血を受けていました。
それで彼は少年時代から兄たちとキャンプやハイキングをして野外生活を楽しみました。
チャーターハウス・スクールでは、すばぬけた秀才ではありませんでしたが、最も活発な生徒の一人でした。
特にスポーツ、音楽、スケッチ等に秀でていて、いつも校内の人気者でした。

19才の時、陸軍の見習い仕官士官としてインドに赴任しましたが、その際上官の理解もあって軍事訓練では重要視されていなかった「測量」、「偵察」、「斥候」を専攻し、若い兵士にいろいろな訓練法を試みました。
この体験を基に体系作りを行い、8年後の1884年に「偵察と斥候」という小冊子を発行しました。
この執筆が、後にいろいろ出版する本の源となり、多くのアイデアを生み出すことにもなり、また多くの戦いに遭遇したことからさらに新しい経験も重ね「自然を相手にした観察力」を身につけたのでした。

イギリスに帰国したB-P卿は「祖国イギリスの少年達が、力強い男性に育っていくことに自分が協力していかねばならない」との信念から、世界各地で得た自分の経験を基に少年向けに本を発行することにしました。
しかしいろいろ考えたことが「本当にうまく実行できるか確かめたい」との思いにかられ、1907年のブラウンシー島で21人の少年たちとの実験キャンプとなったのでした。
この実験を基に翌年『SCOUTING FOR BOYS』が発行され『スカウト運動』が始まりました。

この本はたちまち少年達の心を捕らえ、ボーイスカウト運動はBP卿の予想をはるかに越える早さでイギリスからヨーロッパ各国に広まり、1909年にはイギリスのたった一人のスカウトの善行で、スカウト運動はアメリカに伝えられました。

このような運動の広まりから、B-P卿は、将来起こるかもしれない戦争の為に、少しばかりの成人を訓練することよりも、若い世代をよい公民に育て上げることのほうが、ずっと国の為になるのだという見通しと信念を持つようになりました。
1920年の第1回世界ジャンボリーでは、歓呼する少年たちによって「世界の総長」に推されました。
そして陸軍隊役後の人生を、スカウティングを通して、1941年(昭和16年)に83才で亡くなるまで、その一生を世界のスカウト運動の発展と啓蒙に捧げました。

日本におけるボーイスカウト運動

『SCOUTING FOR BOYS』が発行された翌年の1908年(明治41年)、広島高等師範学校の北条時敬校長がイギリス訪問の折り、スカウト教育について文部大臣より調査を命ぜられ、帰国後自分の付属中学校で実験を行ったことが運動の最初と言われています。

また、1910年(明治43年)にイギリス留学を終えた山口高等商業の蒲生保郷教授が現地で入手したスカウト関係の書籍を当時の桂首相と小松原文相に贈呈し、その訓練法の説明を行い、日本における実施の必要生を強調したとのことです。

後藤新平

後藤新平-初代日本連盟総長

1911年(明治44年)には学習院の院長をしておられた乃木希典将軍が、学習院の生徒のために藤沢の片瀬海岸でボーイスカウト式キャンプを行い、さらに横浜に住んでおられたイギリス人のグリフィン氏が、また神戸在住の牧師ウォーカー氏がそれぞれ日本で初めてボーイスカウト隊を組織編成し活動を始めました。
幸運なことには1912年の4月、世界一周中のBP卿が横浜のグリフィン氏のスカウト隊を視察するという好機会にも恵まれました。

1916年(大正5年)の11月には第1回少年団大会が静岡で開催され、その際各地から集まった123名の代表者によって規約が制定され、現在の日本連盟の前身である「少年団日本連盟」が発足し、初代総長として後藤新平男爵がえらばれました。

1924年(大正13年)、福島県猪苗代湖畔で開催された第1回全国野営大会の後開かれた総会の際、今日まで歌われている連盟歌「花は薫るよ」(有名な山田耕作作曲)が制定され、翌1925年(大正14年)には「ちかい」、「おきて」と進級章・制服さらに技能章などが決まりました。
当時は325団・スカウト数67471名だったそうです。

第2次世界大戦後のスカウト運動では1948年(昭和23年)、世界スカウト会議に日本が復帰したことで始まり、戦後の初代総長には三島通陽先生が選ばれ、荒廃した国土の中での幕開けとなりました。